第三のものについては次のように進められる。 聖なる教えは一つの学ではないと思われる。
なぜなら、哲学者は『分析論後書』第一巻において、 「一つの学とは、一つの種類の主題を扱うもののことである」 と述べているからである。 ところが、聖なる教えにおいて扱われる創造者と被造物は、 一つの種類の主題のもとには包含されない。 したがって、聖なる教えは一つの学ではない。
さらに、聖なる教えにおいては、天使についても、 物体的被造物についても、人間の道徳についても扱われる。 ところで、これらのものはそれぞれ異なる哲学的な諸学に所属する。 したがって、聖なる教えは一つの学ではない。
しかし反対に、聖書は、 それが一つの学であるかのように語っている。 たとえば、『知恵の書』第十章において、 「聖なるものの一つの学を彼に与えた」と言われている。
私は答えて言わなければならない。 聖なる教えは一つの学である。 能力と能力状態の単一性は、 対象にしたがって考察されなければならない。 しかも、対象の、 質料的ではなく形相的な性格にしたがって 考察するのでなければならない。 たとえば、人間と驢馬と石は、 視覚の対象である色を持つものという 一つの形相的な性格において一致するのである。 ところで、すでに述べられたように、 聖書がことがらを考察するのは、 それが神から啓示されたものである限りにおいてであるから、 神から啓示されたものであれば何であろうと、そのすべてが、 この学の対象として一つの形相的な性格において共通である。 したがって、 それらは一つの学としての聖なる教えのもとに包含される。
したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 聖なる教えは、神と被造物とを同列に取り扱うのではない。 主要な対象は神であって、被造物が対象となるのは、 始源あるいは目的としての神に それらが関係づけられる限りにおいてである。 したがって、学の単一性が損われることはない。
第二のものについては次のように言わなければならない。 上位にある一つの能力または能力状態のもとで 共通して支配を受けているいくつかの主題をめぐって、 下位にあるいくつかの能力または能力状態が それぞれに異なっていることには、 いかなる妨げもない。 なぜなら、上位にある能力または能力状態というのは、 より普遍的な形相的観点のもとに対象と関わるからである。 たとえば、共通感覚の対象は感じることのできるものであり、 それは、 見ることのできるものと聞くことのできるものを その中に包含している。 したがって、共通感覚は、 一つの能力でありながら五感のすべての対象に広がるのである。 それと同様に、聖なる教えも、一つの学でありながら、 哲学的な各種の諸学において扱われることがらを、 それらが神から啓示されることのできるものであるという 一つの観点のもとで考察することができる。 したがって、聖なる教えは、 万物にわたって一つであり単純である、 神の知の印影のようなものである。