第四のものについては次のように進められる。 聖なる教えは実践的な学であるように思われる。
なぜなら、哲学者が『形而上学』第二巻で述べているように、 実践的な学の目的は行動だからである。 ところで、聖なる教えは行動に向けて秩序づけられている。 それは、『ヤコブの手紙』第一章で、 「あなたがたは言葉を実行する人になりなさい。 単に聴くだけの人になってはいけません」 と述べられているとおりである。 したがって、聖なる教えは実践的な学である。
さらに、聖なる教えは古い法と新しい法に分かれる。 ところで、法は、実践的な学である倫理的な学に属している。 したがって、聖なる教えは実践的な学である。
しかし反対に、 すべての実践的な学は 人間が行動し得ることがらについてのものである。 たとえば、倫理学は人間の行為についてのものであり、 建築学は建築についてのものである。 ところが、聖なる教えは主として神についてのものであり、 人間たちはむしろ神の製作物なのである。 したがって、それは実践的な学ではなく思弁的な学である。
私は答えて言わなければならない。 聖なる教えは、すでに述べられたように、 一つの学であるにもかかわらず、 さまざまな哲学的な諸学に属することがらへと広がっているが、 その理由は、それらのさまざまなもののうちに、 神の光によって認識され得るという 同一の形相的な性格があるからである。 したがって、哲学的な諸学においては、 あるものは思弁的であり他のものは実践的であるが、聖なる教えは、 自らのもとにそれらの両方を包含している。 それはあたかも、神が、 彼自身と彼が実行することを 同一の知によって認識するのと同様である。
しかし、聖なる教えは実践的というよりもむしろ思弁的である。 なぜなら、 それは主として 人間の行動よりもむしろ神のことがらを扱うからである。 それが人間の行動を扱うのは、 永遠の至福がその中に存在している神の完全な認識に向けて、 その行動によって人間が秩序づけられる限りにおいてである。
そして、これによって異論に対する解答は明らかである。